情報計数学科30周年記念誌


沿革



(設立時)

情報計数学科の前身 工業計数科は、1965年4月に、学生定員40名で設立 された。設立の目的は情報処理技術者の養成である。しかし当時は『情報』の概 念が定着しておらず、学科の名称や設立事由書(図1)にも『情報』という用語の 使用は控えられ、「電子計算機其他技術革新時代の諸機械や器具の知識技術を身 につけた新進気鋭にして有能な技術者の養成」を目標として掲げた。 工業計数科は、短期大学として全国初の情報系専門の学科として、 宇部短期大学創設から5年の節目に、知的好奇心、自立心旺盛な33名の1期生を 迎え第一歩を踏み出した。

わが国のコンピュータ市場では1955年に、世界最初のビジネス用コンピュータ UNIVAC 120 を東京証券取引所や野村証券が導入している[1]。 10年後の工業計数科 設立時は、アタナソフ(John V. Atanasoff)や、チューリング(Alan M. Turing)の 世界最初と称されるコンピュータが出現してちょうど四半世紀経過し、技術先端 ではコンピュータが第二世代から第三世代へ飛躍的に発達した時期である。先進 的ユーザでの処理業務が軌道に乗ってビジネス分野でのコンピュータの利用が開始 され、コンピュータが急速に脚光を浴び始めた時代である。日本における初期の情 報処理教育については、坂井利之他編の「情報工学の教育・研究の10年史」[2] に詳しいが、同誌によると、日本の大学において理工系情報学科が最初に設立 されたのは、工業計数科設立より5年後の1970年である。

工業計数科設立の要因として、工業都市として旺盛な発展をなしつつあった地域 社会の要請も見逃すことはできない。地域の代表的企業である宇部興産(株)、小野田 セメント(株)(現在の秩父小野田(株))は1950年代前半という全国的にも 非常に早い時期に 事務処理のコンピュータ化に取り組み[3]、本誌二章に随想を寄稿の当時の 宇部興産システム部長石田甫氏の談によると、 同社では1957年に UNIVAC 120 を導入し、小野田セメント(株) では1959年に東京本社にUFC (UNIVAC File Computer)を導入している [4][5]。学科設立事由書を「県内随一の工業都市として発展しつつある 地域の特殊性をも勘案し・・・地域性豊かな短大として新生面を開拓することを 切に念願するものである。」と結んでいるように、時代的、地域的な背景をもっ て、男女を問わず専門的知識を備えた有能な技術者を世に送り出すという確固た る目的があった。

学科設立の過程やいきさつは本誌二章掲載の脇坂宣尚氏の随想によって知ること ができる。これによっても、工業計数科は地域社会に貢献する短期大学の教育者 としての使命感に満ちた関係諸氏の熱意と努力によって、地域と宇部短期大学の 大きな期待を担い、先見の明と将来性に対する信念をもって時代の背景を的確に とらえ、創設されたと言える。

設立から現在に至るまでに専任、非常勤を合わせるとおよ そ100名の教職員が工業計数科、工業計数学科、情報計数学科における 情報処理専門教育に携わった(表1,2,3)。 専任教職員の変遷については、宇部短期大学編集「宇部短期大学 三 十年の歩み」の第二章三に詳しく述べられているのでここでは特に取り上げない が、設立時の教員構成としては九州大学、山口大学を中心としてこの地 に逸早く情報科学、計算機科学の礎を築いた諸氏が芳名を連ねた。また、教員名簿に は記載されていないが、特別講義等で、吉田将氏(現 九州芸工大学学長)、 田町常夫氏(現 福岡工業大学教授)、吉田典可氏(現 広島大学教授)など、 多くの斯界の牽引者に登壇の恵を授かり、工業計数科は周囲の厚い支援を 受けて順調に軌道にのった。 宇部短期大学では工業計数科発足と同時に富士通信機製造(株)(現在の富士通(株))製の 科学技術 用電子計算機 FACOM 231を導入した。電子計算機は、真空管がトランジスタに変わって 故障が少なく なり、実用に供せられるものとなった。これが第2世代コンピュータである。富士 通では俗称「フ・ジ・ツー」と呼ばれるトランジスタ式第1号機 FACOM 222を 1961年に完成させ、その後、科学技術計算用として FACOM 231を発表した。231型機 は1964年5月のニューヨーク世界博覧会に出品された[5]。宇部短期大学導入 とほぼ時を同じくして同機種が山口大学にも導入され、工学部電気工学科の一室 に設置された。全国では、それまでにおよそ50程度の高等教育機関でコンピュー タが導入されていたが[3]、その大半が大学であり、用途は教育よりも教員と学 生の研究が主であった。情報処理専門教育を目的としてのコンピュータの 導入は、宇部短期大学が全国的にも先陣の一翼を務めるものであった。

1990年代には社会に開かれた宇部短期大学として、その一役を担うため、高度情 報化社会への対応を支援することを目的として数回の公開講座を開催してきたが(表19)、 工業計数科設立当初にも、地域社会の要請のもと、(株)宇部電子計算センターと の産学協同のトップセミナーや公開講座を頻繁に開催し、各界より多数の参加者 を得て、コンピュータ導入についての指導や情報処理の入門指導を積極的に行っ てきた。

(株)宇部電子計算センターは、1968年に宇部短期大学と富士通株式会社との共同出資 で設立された会社であり(設立当初は社屋を宇部短期大学2号館に置くが、1976年 に移転)、その後も先進的な企業として発展し、現在、山口県情報産業の代表的企 業のひとつとして高度情報化社会において重要な役割をなしている。

設立当初のカリキュラムは、情報分野の基礎科目として数学的基礎、ソフトウェ ア、ハードウェアに関する教科、さらには電子計算機のハードウェアが電子工学 の分野に位置づけられていたこと、初期の電子計算機の中心的応用分野が工業で あったことなどから電子・通信工学や自動制御など工学・工業技術関係の教科と から構成されていた(表8-12)(図6)。

(その後)

情報計数学科は設立以来30年間常に情報処理専門教育のあり方を模索し、 それに併せて進展する科学技術の方向性をとらえ、 これらを学科の専門教育に反映させてきた。その結果、幾度かの変革をなし、 現在も歴史や伝統のみに頼ることなく、教育内容や教育環境等で、 情報処理専門教育への責任を果し得る状態を常に維持している。

1960年4月に、わが国に情報処理学会が任意団体として発足 し(1963年5月に社団法人化)[6]、10年後の1970年には、理工系情報学科が、 国立大学に5学科(学生定員合計234名)、私立大学に2学科(学生定員合計120名)設 立された[2]。俗に「情報化元年」と呼ばれる年である。

学科も軌道に乗った1969年には工業計数科の知名度も高まり、社会的 にも情報処理技術者認定試験が発足(翌年より法律が制定され情報処理技術者試験 として実施)するなど、情報処理技術者に対する認知度や評価も高まってきた。 それを背景に工業計数科の志願者数も急増した。その年1969年、工業計数科を工業計数学科 に改称し、2年後1971年には学生定員を倍増し80名とした。 定員増に合わせて当然のことながらスタッフの補強がなされるなど、情報化と いう急速な社会変化に迅速に対応したが、志願者数の増加は 一時的な現象に終ってしまった(図3)。1973年には 第4次中東戦争を契機に異常な物価上昇が起こり、翌1974年には戦後最大の不況が 到来した。「コンピュータ白書」[7]によると、コンピュータ普及台数の上昇 曲線は急峻から緩慢へ変曲し、レンタル制をもってコンピュータ購入の資金需要 に貢献するJECC(日本電子計算機株式会社)のコンピュータの購入額は、1970年 代の10年間で、およそ1.5倍にしかならなかった。工業 計数学科の志願者数、入学者数も伸び悩みの時代であった。そのような状 況は、コンピュータの多様化によってOA(オフィスオートメーション)熱気が高ま り、日本がパソコン時代に突入した1979年の翌年まで続いた。学科開設以来15年 が経過した頃になると、コンピュータは工業の分野のみならず広く利用されるよ うになり、その利用技術も多様化してきた。また、工業計数学科の専門教育課程 も15年の間に、数学的基礎の単位数が減少してソフトウェアの分野の単位数が増 加し、電子・通信工学分野の教科はその内容がハードウェアの分野に移行するな ど、「ソフトウェアを主体とする計算機科学志向型」に変遷していった[8](表11)。 そのようなことなどから、1980年4月には、学科の名称が教育の目的や内 容とよくマッチするよう、工業計数学科を『情報計数学科』と改称した(図2)。 これを契機として学生数も徐々に増加し、以後今日までの15年間 は概ね定員80名を上回る学生を迎え(表5,6,7)(図3)、1994年3月22日の宇部短期 大学第33期、学科 としては第28期の卒業式までに設立以来1,953名の卒業生を社会へ送り出してきた。 卒業生は、全国各地の企業、医療機関、行政機関、あるいは山口県内の大学、工業 高等専門学校、高等学校等の教育機関など(表17)で専門の知識・技術 を活かして活躍している。また、在学中に「数学」の教職免許(中学校教諭二級普通 免許状、1990年度からは二種免許状)を取得し、 教育職の道を選択している卒業生、現在は家庭を築き守っている卒業生、卒業後 さらに高度に学ぶために4年制大学に編入し就学中の卒業生もあり、それぞれに 生き生きと独自の道を歩んでいる。

情報計数学科の教育を名実ともに高めることを目的として、1983年、TSS (Time Sharing System)方式の汎用コンピュータ FACOM M-160F を教育用計算機として導 入した。学科開設時に導入された FACOM 231 は、同機を使用して学んだ学生や同 機を駆使した教職員に最高の愛着を持たれていたが、1974年にはその役目を果たし 終えていた(図7)。M-160F 導入までのおよそ10年間は、(株)宇部電子計算センター で業務用として用いられていた汎用コンピュータ(FACOM 230-20、FACOM 230-25) や1982年4月に学内共同利用施 設として施設されたマイクロコンピュータセンター設備のパーソナルコンピュー タ(FM-8)、さらには香川高等学校に導入されたコンピュータ(FACOM 230-15)などが、 教育用計算 機のピンチヒッターとしての役割を果たした。M-160F の導入によって実習形態は 一変した。FACOM 231 のリプレイスによって紙テープが姿を消して久しいが、 ここで穿孔カードも姿を消し、従来からの方法に慣れ親しんできた者には、プロ グラムやデータが実体感の薄いものに感じられ、不安感さえ抱かせた。19期学 生の実習は、処理形態がバッチ処理に制約されたテーマから、2年次は急にデ ィスプレイ端末を相手にリアルタイム処理、オンライン処理を含むテーマへと広 がりを見せて行われた。しかし、学生は教員の憂慮にもかかわらず教育環境の 変化に柔軟に対応し、開設以来の大がかりな教育環境改善は成し遂げられた。

情報専門教育機関では、その時代において教育に最適なコンピュータシステムを 導入し、それを教育に有効利用できるシステムとして構築する能力と実働が要求 される。設立時、中心となってその役割を果たした教員は石丸力也講師(後に教授、 1990年2月逝去)をはじめとする設立時在職の専任教職員であったが、1983年の M-160F システムの導入は長田一興助教授(現 近畿大学教授)を中心に学科主体で導入が進め られた。その後のパーソナルコンピュータやネットワークシステムの導入も、シ ステム構築やシステム管理の面でこれまで以上にユーザ側に委ねられる比 重が高く、多数の教員の並々ならぬ尽力に支えられて遂行されてきた。

1987年、現在のコース制が設置された。設置コースは従来から行ってきた教育を 踏襲する『情報計数コース』と、既存の情報技術を経営活動に利用する実務者の 養成を目標とする『経営情報コース』である。情報計数学科の専門教育課程は先 にも述べた通り、設立以来大きく変遷してきたが、コース制設置に伴い当然のこ ととして、カリキュラム改正がなされ、基礎、ソフトウェアを中心とするコース共通科 目、および各コースの教育理念に基づいたコース専門科目という体系で教育科目 の改正・新設がなされた。情報計数コースは基礎理論、ソフトウェア、ハードウ ェア、応用システムを柱に、経営情報コースは、経営情報システムを中心とする 応用システムに重点が置かれ、経営科学を柱としてカリキュラムが構成されてい る[9](表12)(図6)。

このカリキュラム改正に伴い1期生から22期生まで開講してきた「卒業研究」 が廃止された。代わりとして「特別演習」、「応用プログラミング演習」が新設 された。22年間にわたって開講されてきた「卒業研究」は、学生数の増加に伴い 幾分形骸化の傾向が見られたが、当科目の単位取得学生数は全体で1,263名、遂行 テーマ数は370テーマであり、各年度の1グループ当りの学生数の平均は全 期で3.4名、開講期間を通して5名を越えていない(表15)(図8)。M-160Fシステム 導入の翌年1984年度の卒業研究では、 導入されたソフトウェアシステムの使用手引書の作成を テーマとするグループが組織的に編成されるなど、話題となったソフトウェア システムやプログラム言語など、「新しいこと」への取り組みは、まず、この 「卒業研究」で取り上げられ、試行されたり遂行されてきた例が多い。

コース設置に先だちその前年度に、16ビットパーソナルコンピュータPC-9801(日 本電気製)をネットワーク構成したCAI(計算機援用教育)システムPC-Semiが導入さ れた。マイクロコンピュータ、パーソナルコンピュータの教育への利用は、1976 年に発売されたTK-80(日本電気製)をスタートに、情報計数 学科が積極的に働きかけて施設されたマイクロコンピュータセンターを利用する など、「卒業研究」や「電子工学実験」でなされてきたが、この システムの導入で「計算機プログラミング演習」等のソフトウェア入門教育、経 営情報コースの科目「応用プログラミング」などの教育にも本格的に利用できる 待望の環境整備が達成された。

情報計数学科が開設以来使用してきた主な教育用プログラミング言語は、開設時 はアセンブラ言語S-2とALGOLが主であったが、(株)宇部電子計算センターが 設立されてからは同社のコンピュータ(FACOM 230-20)での実習が可能となり、 COBOLがそれに加えられた。 ALGOLはFACOM 231が事実上廃棄された時点で、FORTRANに代わった。コ ース設置と同時にFORTRANに代ってC言語が使用されることとなり現在に至ってい る。ここに挙げる主な教育用プログラミング言語とは、「計算機プログラミング」 という教科群で使用される言語であって、この教科群をどのようなプログラミング 言語を用いて教育するかということは、 情報処理教育にとって重要な問題のひとつであり、 情報処理専門教育としての理想面と実社会でのシェアや実習用コンピュータシス テムという現実面、さらに将来展望との兼ね合いなどにおいて学科の主要課題として 熟慮検討されてきた(表14)。

授業外の教育としては、実社会への認識を深めたり、急速に発達する情報化技術や 先端技術を見聞することを目的として、工場見学、研修旅行が継続的に実施されて きた(表16)。また、学生の就職を支援するため、いろいろな方面で活躍している 卒業生との就職懇談会が開催されてきた(表18)。

工業計数科設立後10年経過した1975年の年頭には、工業計数学科の卒業生によっ ておよそ2年間温められた念願が果たされ、「工業計数学科同窓会」が設立された。 同窓会より提供された活動記録の一部を資料3.11として添付させていただく。

コンピュータシステムは60年代には並行処理が可能となり、70年代には各所に大 型計算センターが設置され集中管理型の形態に進行したが、70年代も後半になる とその限界が見えはじめ、分散処理形態へと移行しはじめた。さらに、それは60年代末 に兆しを見せたコンピュータネットワークへ進化進展しつつある。これに伴い 情報計数学科では1991年よりコンピュータネットワークの構築に着手した。

以上のような変遷を経て、現在、情報計数学科の教育システムは、 大型コンピュータによる集中型システムに代わってワークステーション(Sun4/10)を中 枢とするコンピュータネットワークシステムが採用されている。 さらに宇部短期大学の情報システムは「インター ネット」と呼ばれる世界的規模のコンピュータネットワークに接続され、情報計 数学科は宇部短期大学ネットワークシステムの構築、管理および技術面において 重要な役割を果たしている。また現在、山口県という地域社会の高度情報化を推進す るための活動を、近隣の高等教育機関や企業と協力して行っている。また、情報 計数学科はインターネットによって情報を享受するだけでなく、世界に向けて情 報を発信するための準備を着々と整えている。

昨年1994年は、日本も米国に続いて光ファイバー通信網整備計画を立て、コンピ ュータ、通信および放送が一体となったマルチメディア時代の構想やインターネ ットに関する話題が沸騰した。 このように情報化パラダイムシフトが劇的に起こっている 今春3月の29期生の卒業式において、記念すべき30周年の慶事にふさわしく、 設立以来の卒業生数が2,000名を越える。


宇部フロンティア大学短期大学部(旧 宇部短期大学)