情報計数学科30周年記念誌


30年前の工業計数科のカリキュラムとコンピュータ


山口大学 医療技術短期大学部 助教授
福田 敏宏


1、昭和40年頃の山口でのコンピュータ
昭和40年4月は私が大学を卒業した年であり、宇部短期大学工業計数科の 助手として採用された年である。

宇部短期大学に就職する前に、当時としては(今でもではあるが)あまり 聞き慣れない「工業計数科」という学科では、どういう学生を養成するの かなどを色々と質問した。回答は "プログラムを作る学生" ということであり、 そこでの私の義務としては、数学(代数、幾何、それに加えて解析と統計 学もあり、当時の4年制大学の専門の数学の基礎課程と同程度のカリキュラム であった)の演習を担当し、余裕があればプログラムを勉強して実習に協力し てくれればよいということであった。また、週に1回は山口大学に勉強に行って もいいという好条件であった。

当時の私のコンピュータに関する知識としては、学生時代にLP(線形計画法)に 関する英文の書籍を読まされ、これは「線形代数よりは経済の話だな」との 印象をもっていたことと、宇部興産本社にPCS(パンチカードシステム)を見学 に行って見聞したことぐらいであった。その見学の時の様子であるが、多数の 女性のキーパンチャーが、計算機(UNIVAC)に入力するデータをパンチとベリファ イする(今では知らない人が多いが90桁のダルマ式の穴を開ける方式で、チェック に妙に手間のかかる方法で修正していたのを記憶している)作業の音がうるさく、 オペレータがそのカードを分類機や計算機(計算した結果はカードに穴が開け られてそれが出力されるだけであるが、多数の真空管がきれいに点滅し ていた)や印刷機にセットするなど、忙しく動き回っていた ことを記憶している。

「この機械でのプログラミングは」との私の質問に、案内された方が四角い箱 を取り出すと、その中には多数の穴が開いていて、それをコードで結ぶことで いろいろの計算ができるとのことであった。後で、計数科に設備されていた 三菱製のアナログコンピュータのプログラム方式がこれと同じ方式(ワイアー ドロジック方式)であると感じたが、原理は全く違う(UNIVACは逐次処理であり、 アナコンは並列処理)ものであった。

2、宇部短大に入って
宇部短大に入って1年後に導入されたディジタルコンピュータは富士通(当時は富士 通信機製造といった)製の科学技術計算用 コンピュータ FACOM 231 で、主記憶装置はコアメモリであり、その記憶容量は 4kCであった。周辺の装置としては、磁気テープ装置が3台、紙テープ読み取り機、 紙テープさん孔機、IBMのタイプライターがオンラインで接続され、その他、 オフラインの紙テープさん孔機が1台という構成であった。記憶容量に用いられ ているCという単位はキャラクタの略で、4bitのデータ(1桁の10進数か16進数を 表現することができる)に1bitのワードマークと1bitのチェックビットを加えた 計6bitが1単位、すなわち1Cであり、それに対して16進数のアドレス が付くようになっていた。

OSらしきものはなく、IPLも、コンソールの前でオペレータが機械語を セットしてジャンプ命令で行なっていた。

命令は普通 2アドレス方式(11Cを必要とする)であったが、ワードマークで自由に 桁数を変えることができたので可変語長のデータを扱うことができた。 加算命令では先頭アドレスからワードマークまでと後方アドレスから ワードマークまでとが加算され後方のアドレスに結果が格納されるという方法で、 一命令で最大50桁どうしの加減算ができた。 また、乗除算もそれぞれ50桁以内の 処理ができたが、それぞれの演算は数秒もかかり、操作卓の前でモニタラン プがピカピカ光り結果が計算されるのをみて驚異を感じたものである。 また、紙テープ読み取り装置はチャネルがないので紙テープのストップコード まで何百何千桁のデータを一つの入力命令で直接読みとることができた。 そのほか一命令で全エリアをクリアできるなど、今では考えられないような 命令が存在した。

FACOM 231 の命令の種類は約100種類ほどあったと思うが、これを3C (\(16^3=4096\)通り)で表現していたから今から考えると非常に無駄があった。

学科設立当初には、これで機械語とアセンブラ言語の原理と使い方 を理解させるのであるが、2年間で卒業する学生諸君には少し難し過ぎたのでは と思える。

発足後1年ほどして主記憶装置を16kCに増設し、ALGOLが使えるように なった。3台の磁気テープをフルに使用しての翻訳であったが、どんな 簡単なプログラムでも3分、大きなものなら10分もコンパイル時間が 掛かった。 しかしこのALGOLは非常によく出来ていて、そののち色々な機械の ALGOLを使ったが FACOM 231 のものが一番良かった。 まして、FORTRAN言語なぞなんて下らない言語かと今でも思っている。

学生は数学は全て必修であり、数値計算法やほとんどの専門の講義も 必修であったので大変苦労したようである。数学関係の科目数も多く、 非常勤の方にかなり多数の科目をお願いしていた時期に次のようなことも あった。 つまり当時は中学校教諭2級「数学」の免許取得には十分すぎるほど の数学関係の科目が必須であったため、卒業するとほぼ半自動的に免許状 もらえるほどになっていて、特に山口大学教育学部からの非常勤の先生方 には単位は出すけど学力が足りないので免許は出したくないと言われたこと もあった。 その際は、これは学則に定められていると突っぱねた。 しかし数学のできる学生で、計数科を卒業して山口大学の教育学部に編入した 学生もいた。

科学技術計算のプログラマのニーズは今でも少ないのに、当時はそんな 学生を何処に就職させるのかという質問をよく受けたし、私としても数学 偏重のカリキュラムの消化状態から、このままでは無理ではないかと思い、 事務計算に重点を置いたらどうかと提案した。 そのためには当時の出力装置では貧弱で、大量の出力には時間を要するし、 またカナも扱えないので、ラインプリンタ装置がぜひ必要であるとの要求を した。しかし学校側からは、予算がないという理由で断られた。\\

3、計算センターの設立
私としてはラインプリンタが欲しかったので計算センターの設立に同意した。 つまり宇部電子計算センターなるものを創ったのはそこにラインプリンタ を入れさせ、それを学生に使わせよう、また、外部委託の業務を請け負って コンピュータのレンタル料を払おうという考えが発端であった。 言い出しっぺである私は、昭和43年の夏休みは東京の馬場先門(富士通の本社があった) を中心に、都内の計算センターにおじゃまをし、見学や実習をさせてもらった。 そんなことで、計数科の教室2つと計算機室の半分を利用して計算センターは始まった。 計算センターの計算機の本体はFACOM 230-20 (32kbyte)、周辺装置は磁気テープ装置 5台、カード読み取り装置と待望のラインプリンタ装置という構成で、 FACOM 231の命令も使うことができたが、チャネルやレジスタをもち、 初期のOSも完備され、IPLも紙テープで行なうことができた。 また、オフラインのカードさん孔装置(IBM型80桁)も10数台導入した。 ソフトウェアは、主体はCOBOLとFORTRAN言語で、多数のアプリケーション が使えるようになっていた。

これに伴い計数科のカリキュラムも色々変更となり、数学も必修から 選択に変わっていった。


宇部フロンティア大学短期大学部(旧 宇部短期大学)