情報計数学科30周年記念誌


非常勤講師20余年の想い出


現 山口短期大学 教授
平田 威彦


昭和39年秋東京オリンピックの頃、九州大学の電子工学科栗原研究室(電子計算 機講座)に宇部短期大学のまだ若々しい石丸力也先生がお見えになりました。暫くの 間電子計算機の勉強をするために来られたということでありました。その当時市山寿 男先生も栗原研究室で助手として研究をしておられました。その頃栗原研究室では現 在の日本語ワープロの基本ともなるカナ漢字変換ですとか、通信工学科田町研究室と の共同で自動翻訳機(九州大学独自の設計・製作によるKT-1,KT-2という名 の主記憶装置が磁気ドラムの計算機)の研究が行なわれていました。自然言語処理と いうことで文学部だか工学部だか判別できないくらい沢山の日本語や英語の資料が山 積みされていました。

年明けて間もない天気のよい日でした。山大・電気工学科の神谷先生が宇部短期大 学の脇坂先生と事務局の方お一人を案内されて先輩である栗原教授を訪ねて来られま した。そのとき脇坂先生から宇部短期大学にも電子計算機関係の学科が増設されるこ とを伺い石丸先生から聞いていたことが実現されることを知りました。

申し遅れましたが、私もその年度栗原研究室にお邪魔して勉強させて頂いておりまし た。市山先生には確率の公理特にボレル集合とかシグマ集合体とかいうのが解らなく て質問ばかりして随分御迷惑をおかけしました。既に山大にもその年度内に中型計 算機 FACOM 231 が導入されることになっており、私が不在の間に電気工学科 の1階の学生実験室だった所に計算機が据え付けられ、研究室の多少の移動のため私 の部屋は2階から1階に移されて机や書棚などはそこに放り込まれていました。

当初 FACOM 231 は神谷先生の専用機みたいで、他の人はまだ利用価値を認 識していなかったようでした。紙のテープやカードにALGOLで書いた命令やデー タをパンチしたものを計算機にセットして入力するという面倒さがありましたし、現 在のようにプログラムのエラーなど簡単にデバッグしてくれるものではなく大変苦労 しなければなりませんでした。神谷先生は手元にある FACOM 231 で計算機制御 のことを研究されていたようです。徳山ソーダ(株)のセメント・キルンの制御シス テムにも関係され、スクールバスでの学生の日帰り見学ツアーのときにも見学させて 貰いましたが、そのときはまだ研究の途中であったとのことでした。

FACOM 231 の計算機室長は電気工学科佐々木教授で、事務を担当する人は 尾道短期大学の文化系を卒業されたばかりの利重さんという女性が昭和40年春 着任しました。

その40年春宇部短期大学工業計数科が発足したわけですが、神谷先生から私に来 年つまり第1期生が2年生のときからオペレーションズ・リサーチ(OR)を講義し て貰えないかと相談がありました。私は引き受けました。早速準備にとりかかるべく 参考書を数冊購入し講義ノートを作り始めました。どの参考書も最初は線形計画法か ら始まります。線形計画法は栗原研究室でお世話になっているとき一寸見たことはあ りますが、いざ自分でノートにまとめようとすると手続きが凄く面倒くさいものであ ることが解りました。解ったような気になっているだけで全く解っていなかったので す。次は待ち行列ですがこれは学生時代習った有線通信の中の電話トラフィック理論 そのもので、少し新しい形に変わっているだけですから楽でした。また、ゲーム理論 はその年度の卒研の中でゼミとしてやっておりましたが、混合戦略ゲームがベイズ決 定に結びついていることなどを知りました。1期生には41年度後期2単位でしたが、2 期生からは通年4単位となりました。

1期生が卒業するとき山大計算機室では利重さんが電気工学科事務室に配置替えに なりましたので、1期生の古谷宜子さんが卒業と同時に電気工学科の技官(教務員) として計算機室に入られることになりました。戦力を増やした計算機室はその後着々 と利用を増やして行きました。そのデータなどは判りませんが、計算機室の直ぐ近くに 居るものですから見たり聞いたり膚で感じました。

昭和42年初夏の頃でした。山大電気工学専攻修士課程の第1期生で非常によく勉強 し積極的に活動する\ruby{清}{せい}\ruby{木}{き}君という人物は時には宇部短期大学に出掛けて行 って数学基礎論を研究されている田村三郎先生に色々教わったり提案したりしており ましたが、山口県内にある大学、短大、高専、更には工業高校の先生にも呼び掛けて 情報関係の研究会を作ろうという話が先生との間に出来上がったようであります。こ の話は山大は勿論宇部高専にも伝えられたちまち気運は盛り上がりました。早速県内 の電気系学科のあるところに檄文が配布され、設立総会が行なわれたのが夏休みの始 まり頃山大電気3階の教室でありました。会の名称“山口地区情報科学研究会“、そ して会則などが定められ、山大、宇部短大、宇部高専の順に3校が持ち回りで2年間 ずつ会の世話をする当番校とすることに決まりました。会費は徴収せず、従って入退 会の手続きなし。研究発表やトピックス、解説など年3回くらい希望を募って行なう ことなどでした。忘年会は宴会の前に1〜2件のトピックスや解説がありましたし、 2〜3年後には九大の栗原研究室との湯野温泉での1泊の研究会、更に20年後には 大島に1泊して宇部高専土井先生の国際会議報告、翌日の商船高専での研究発表 会や見学など大変面白いものでありました。

昭和45〜6年頃でしたか全国的に学園騒動が激しくなりました。しかし、幸いにも山 口大学の特に工学部の学生は皆真面目で、過激派に属している連中もよく勉強する成 績の良い学生でしたから大学の施設を破壊するようなことは一度もありませんでした。

その後 FACOM 231 は多忙になりました。工学部では一般科目の中で情報処 理教育が始まったと思います。少なくとも電気工学科ではプログラミング教育は行な っておりました。それで計算機室も古谷さんの他に教務員の人が一人と事務の人が一 人増えました。

古谷さんは6年間勤められたのち結婚され退職されました。入れ替わりに7期生の 石田美栄子さんが入られました。その2年後には石田さん以外の2人の人は結婚など で退職され9期生の日名映子さんが入られました。その後58年頃まで石田さんと日 名さんのコンビは続きました。途中御両名共結婚され、姓も夫々高田さんと二木さん に変わりましたし、57年には情報処理センターと名称も変わって殆んど工学部だけ が計算機を利用して来たものが全学的な利用の形に変わりました。センターとして独 立した建物もでき、人数も併任のセンター長を除いて7人と増えました。その頃から やっと私はお二人のお世話になるようになりました。つまりプログラム相談などです。 それ以後退職するまで随分とお手数をお掛けしました。

宇部短期大学には20年以上もの間非常勤講師としてお世話になりました。先生方 との交わり、学生さんのこと、情報研究会のことなど数々の想い出がCRTディスプ レーにデータを走らせるように想い出されます。

宇部短期大学も4年制大学に昇格されるとのことで、今後益々のご発展を心からお 祈り申し上げます。


宇部フロンティア大学短期大学部(旧 宇部短期大学)