情報計数学科30周年記念誌


私の30年の歩み


桑 里子(1期生)


この夏は非常に暑かった。猛暑と水不足が連日新聞やニュースを賑わしこのまま水 が枯れてしまうのではないかと思われるほど厳しい夏であった。 かつて、炎天の下、岩鼻の駅と学校の間を走って通っていたことを思い出す。

西の京、山口を出てからただひたすらにコンピュータと付き合って早や1/4世紀、 心身ともに一つの区切りにきたのではないかと思う。 この間、コンピュータの発展は目覚ましいものがありハードウェアの発展と利用技術 の変遷がスパイラルをなしどんどん身近なものになってきた。 コンピュータは大きくて高価なものと言われていたものが、小さくて安価なものに変 わり新聞を賑わすのはパソコン、ワークステーション、マルチメディア、ダウンサイ ジング、クライアントサーバ、オープン、インターネット・・・etc 終始この業界にいながらこのハードウェアや利用技術の進歩の早さについていくのは 息切れする。今までは特定メーカの技術のみで何とか仕事はこなせていたが現在はマ ルチベンダー、内外のISVソフト等幅広く対応出来る技術を要求されてきた。 一方、昨今の不景気に企業の情報投資も縮小され、この業界においてはダブルパンチを 受けこれまで右上がりの状態から生まれて初めて下降の道を経験した。 ここにおいて改めて真のユーザニーズについて真剣に取り組まねばならなくなった。

1967年、私は全国の先陣をきって設立された工業計数科に飛び込んだ。このこと がそれから30年、自分の生涯の仕事に匹敵するきっかけをつくったとは人生の選択 は思いもかけないところに潜んでいるものである。 当時はホストコンピュータの幕開けであり汎用コンピュータによる集中処理時代の始 まりであった。IBMはシステム360を発表、国内メーカ各社からその対抗機が発 表された。時あたかも工業計数科に設置されたのも「FACOM 231」なる富士通 製の汎用コンピュータ。機械語なる言語で日夜このコンピュータと格闘し黒い紙テー プを首に巻きつけコンピュータ室と教室の間を闊歩していた。せいぜい100ステッ プ弱のプログラムであるが如何に短く、効率良く組むか又サンプルとして挙げられた プログラムの虫を探し出す楽しみも味わった。ジャンプ命令に使用するジャンプ先は 全て絶対アドレス指定であるため、当時ソロバンで計算したものである。コンピュー タを相手にソロバンとは妙な組み合わせだと思ったことであった。 当時、今は亡き石丸先生が独自でアセンブラを開発しておられた。我々が首にさげて いる紙テープより更に長い紙テープを相手に格闘していらした様子は今でも思い出す。 機械語があるのに何故、このような言語が必要なのか疑問を抱きつつ見ていたがその 内大変な言語を開発しているのだと尊敬のまなざしに変わった。 我々の在学中に完成したかどうかさだかでないが、コンピュータ言語の歴史の中に アセンブラを見るたびに石丸先生を思い出す。 言語でもう一つ思い出すのは「COBOL」である。1960年、COBOL憲法 なるものが米国で制定され日本のコンピュータにも徐々に使用検討されていた。 卒業間近、福田先生より説明を受け例題を見せて貰ったが4つのDIVISION に分けられた構成には中々馴染めず自分の頭の柔軟性の悪さを悔やんだものである。 しかし、その後この2つの言語が私の仕事の中心になってこようとは当時思っても みなかった。 短い学生生活の締め括りは卒業研究であった。毎日が無我夢中であったので何をテーマ にしたら良いか見当がつかず先生の言われるままに「ブール代数の研究」に取り組ん だ。 資料は原書しかなくそれも1冊のみ。毎日少しずつコピーをとり翻訳し卒業研究として 纏めたが結局ブール代数とはなんぞや?と言う事が判ったのみに終わったと思う。 しかしその後、小学教育の中に取り入れられ驚いた次第である。

色々なことが頭の中で渦巻くまま大阪で社会人となった。しかし、入社したとたん 早速東京での徹夜の連続で生活が始まり、この業界はこのようなところなのだと 自分自身に言い聞かせ一生懸命頑張った。 今から思えば当時、随分先輩には迷惑をかけたがそのような先輩諸氏と今でも一緒 に仕事が続けられていることは幸せであると思う。 入社当時の仕事のやり方は今とは違いハングリーな状況であった。取り立てた教育も なくいきなりアセンブラ言語「FASP」のマニュアルを渡され約1週間独学、 その後仕様書を渡され私なりのフローチャートに仕立てコーディング。80欄のカード にパンチし東京に出張、デバッグを開始したが全然前に進まず何度放り出そうと 思ったことか。しかし何とか出来上がりほっとしたのも束の間、その後の仕事の 厳しさは変わらずあっと言う間に体重も10キロ減ってしまった。 しばらくして「COBOL」が本格的に採用されここでは未だバグの潜んでいる 新しい言語の生みの苦しみを嫌と言う程味わった。くしくもこの2年前、工業計 数科で馴染めなかった言語は嫌がおうでも自分のものにしなければならなかった。 それから20数年、プログラマー、プランナー、ユーザ指導、フィールドSE、 営業、管理職と一通りの仕事は経験し昨年は永年勤続賞をもらい自分の仕事の 責任も大きくなってきた。 汎用コンピュータ中心であったものもこの間パソコン中心に移行し、世の中は本格的 なオープン・コンピューティングの時代となってきた。 一方、海外のハードウェアやソフトウェアが氾濫している中で国産メーカも独自技術 のみでなく幅広く対応できるよう方向を変えてきた。 クライアント向けのオペレーテングシステムは益々競争が激しくなり次期OSも 2世代先まで発表されている。しかしあまりの競争の激しさに無理な発表を しているようでしばしば未完成なままでのデリバリィーや発表の遅れをきたしている。 かつては国産の汎用コンピュータのOSでは許されなかったことである。 しかし最近ではこのような遅れに対して無頓着になってきている人が多く なってきたのではなかろうか。

エンドユーザは我々以上に情報は豊富になり安く良いものを選び自分達でシステム を構築していく力がついてきた。 この様な状況で我々はどの様に仕事をしていけばよいのか、つまり儲けていけば 良いのか真剣に考えて行く必要がある。 コンピュータの利用はそのハードウェア、基本OS、プログラム言語etc、これらの コンピュータテクノロジーによりアウトプットすることが目的である。当初は手作業を 効率化する手段としてコンピュータが使われた。つまり平行移植に過ぎなかった。 今でもその利用方法は健全である。しかしエンドユーザから見たニーズに対する夢 は果てしないものがありそのヴィジョンは大きくなってきている。 今やコンピュータテクノロジーはそのコストパフォーマンスを急速に上げ利用の 方法も単なる手作業のツールとして利用するのではなく業務の改善、ひいては企業 の抜本的な改善のツールとして利用されるに耐えうる技術になっている。ビジネス ・リエンジニアリングはまさにこれらの技術の進歩に裏付けされた要求ではなかろ うか。 これからは「どのように造るか?」と言うテクノロジーの世界から「なにを造るか? 」と言うクリエイティブな世界で、オリジナリティーを活かしていかなければなら ない、と思う今日この頃である。

(サクラ KCS))


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