情報計数学科30周年記念誌


宇部短期大学 情報計数学科の創設について


香川学園環境技術センター所長
宇部短期大学名誉教授
脇坂 宣尚


昭和35年4月、香川学園短期大学が創設され、家政科が設置された。私は新造節三理事長・初代学長に請われて、3月末で山口県立医科大学(現在の山口大学医学部)を退職し、4月からこの学園にお世話になることになった。なお、香川学園短期大学は同年10月に宇部短期大学に改称された。

日本の短期大学制度は、第二次大戦後の昭和25年に発足したものであるが、当時の短期大学は女子教育が主であったので、当時全国に200校近くあった短期大学の殆んどに家政科が設置されていた。その頃、山口県内には四年制大学としては国立の山口大学と、山口県立医科大学、下関市立大学があったが、短期大学は山口県立女子短期大学のみであったから、私立短期大学としての宇部短期大学の開学は、県下の教育関係者や進学期の生徒をもつ父兄に大きい期待をもたれた発足であった。

宇部短期大学の創設に当って、新造先生は常に「この短大は、地域の支援によって創られた。地域に役立つ人材を養成する責任がある。」と言っておられたが、当時は現在のような文部省の私立大学運営の補助金制度もなく、私立短期大学は独自の力で運営しなければならなかったので、学校経営は並大抵ではなく、香川学園高等学校(現在は香川高等学校)に助けられていたのが実情であった。したがって、一日も早く短期大学が独立できるように、そのためには家政科以外の学科の増設を早急に行なわねばならなかった。

最初の学科増設の対象にされたのは食物科であったが、県内には既に山口県立女子短期大学に食物科があったので、家政科の入学定員を変更して栄養士養成課程を置くことになり、昭和37年4月から発足した。

宇部短期大学の創設当初から、私が新造先生に相談を受けていたのは、理系の学科を創りたいということと、学生数を五百人にすることであった。新造先生は、東京大学文学部印度哲学科を卒業された宗教学者であったが理系の分野にも理解があり、化学工業都市という宇部市の特性を考えて文系と理系を備えた短期大学にすることが希望であった。当時、市内には山口大学工学部はあったが、現在の宇部工業高等専門学校はまだ発足していなかったので、宇部短期大学としては、何とか全国的にみても特色のある理系の学科を設置したかったのである。

昭和38年夏、日本の代表的コンピュータ・メーカー富士通信機製造株式会社(現・富士通(株))の岡田完二郎社長が本学を来訪された。岡田完二郎社長は宇部興産株式会社の副社長として宇部に住んでおられたことがあったので、新造先生と私は懇意にお付き合いを頂いていたが、学長室で将来わが国のあらゆる分野でコンピュータが利用されるであろうと話され、本学にコンピュータのソフトウェア技術者を養成する学科を設置してはどうかと提案された。

早速、私が具体的な内容と学科増設の可能性を検討することになった。 友人のひとりであった山口大学工学部の神谷健児助教授に、九州大学工学部でコンピュータ関連講座を担当しておられた栗原俊彦教授を紹介して頂き、学科内容等の相談に乗って頂きながら文部省と折衝を開始した。

文部省との協議では、まず学科の名称をどのようにするかが問題であった。 当時、私達が計画したような、コンピュータのソフトウェア技術者を養成する学科は、全国の短期大学に例がなかったし、文部省の短期大学教育教科課程の基準にも見当たらなかったからである。再三にわたって文部省の担当官と折衝した結果、工業計数科という名称に決まったのは、学科増設申請書の提出期限である昭和39年9月末の一ヶ月前であった。

このような文部省との協議のほかに、問題は工業計数科の教員の確保であった。 新造先生と私は東京大学、大阪大学、広島大学、九州大学と東奔西走して文部省の意向にあう適格な教員を探し求めたが、当時最も新しい学問と技術の分野で4名の理工系教授を得ることは全く絶望的であった。一時は教授の確保ができないことで計画を中止することも考えたが、当時の九州大学の工藤達二教授(統計学)と、大阪工業大学・田村三郎助教授(代数学)、前宇部興産(株)中央研究所・松浦梁作部長(工業化学)の就任が決まり、私の配置替え(衛生工学)によって何とか4名の教授を揃え、コンピュータ教育の専門教員として富士通信機製造株式会社の井上直敏部長、小野田工業高校の石丸力也教諭を迎えることが決まって、漸く申請にこぎつけることができた。 今では岡田完二郎社長、栗原俊彦教授、神谷健児助教授の三人とも故人となられたが、宇部短期大学工業計数科設置の真の功労者である。

一方、学内では宇津見隆事務部長ほかの事務職員の皆さんと、家政科の上田丞講師(現在は一般教育科目教授)、家政科の森江尭子助手(現在は香川学園環境技術センター業務部長)とで教科課程や教員の履歴書、実験実習室・研究室・電子計算機室の建設計画と、電子計算機室をはじめとする機械器具の購入計画、図書の購入も終って、私と宇津見事務部長が文部省へ申請書を持参したのは締切間際の9月25日であった。なお、工業計数科の増設申請にあたって、従来の校地に隣接した農地を購入し、短期大学の専用運動場(現在の校舎北側の運動場)も出来上がった。

工業計数科と、同時に申請した保育科の設置が、文部大臣から認可されたのは翌年の1月25日であった。一度に全く性格の異る二つの学科の増設を申請するのは無理だと文部省担当に言われており、工業計数科の認可の可能性は少ないものと思っていただけに、両学科の増設が同時に認可されて、新造先生が喜ばれた顔は今でも忘れられない。

昭和40年4月、33名の入学者を迎えて工業計数科は発足した。 11月には、校舎二号館が完成し、待望の富士通(株)製の中型コンピュータ FACOM 231 型機が、一階に設置された。当時、全国の私立短期大学でコンピュータを設置していたのは、東京にあった産業能率短期大学のみであって、この新型機種の導入には全国の短期大学が目を見張ったものである。また、このコンピュータの購入にあたって、文部省の理科設備特別助成金を受けたのも、私立短期大学としては初めてのことであった。

その後、工業計数科は昭和44年4月から工業計数学科に、昭和55年4月から情報計数学科に改称された。

思いつくままに、情報計数学科の設立当時のいきさつを記したが、この学科は宇部短期大学を創設された新造先生が、香川学園の将来の発展を託してつくられた理系の学科であり、宇部短期大学の名前を一挙に全国の短期大学、四年制大学が知ることになった画期的な学科である。その後、幾つかの短期大学で情報処理系の学科が設置されたが、宇部短期大学情報計数学科は、この分野のパイオニアである。

全国各地で活躍しておられる卒業生の皆さんと、伝統ある宇部短期大学情報計数学科が今後益々発展されることを切に期待する。



宇部フロンティア大学短期大学部(旧 宇部短期大学)