No.148新川蛇瀬川の下流(明治末期 桶ノ口付近らしい)
(出典)絵はがき 宇部百景
説明
・新川の西岸は、沖ノ山の松原であった。
・寛政9年(1797)福原房純が宇部本川の開削計画を立てた。これは、宇部本川(真締川)が土砂を流出し、川口 付近が遠浅の干潟になり、水の流れが悪くなり、度々洪水が生じるようになったためである。
・工事は9年の冬(10月)から10年の春にかけて行われ、これには福原氏の家老、村上軍冶が責任者となり、河 野此面が「堀川奉行」となって進められた。
・この工事は、長さ570間で人夫1万6000人を要した。
・開削により宇部本川は水や土砂を順調に流すようになったので、従来の川筋の川口を封鎖して、海水の逆流を 防ぎ、旧河道を開作して耕地にしたいと萩藩に願い出た。その願いは許可され、これによって新川が公的に認 められ、旧河道が埋め立てられた。
作成者/冨永 恵